言葉ではなく、心を聞き、心を伝えましょう

幼稚園から1,2年生までは、比較的、子どもは「おしゃべり」の子どもが多いものです。夕方の忙しい時間にも関わらず、母親の後ろを付いて歩き、いろんな話を一生懸命にしてくれた・・・そんなことを思い出しませんか?
 学校の帰りに見たアリの行列・・・
 工事現場のクレーンの話し・・・
 角を曲がるまで、ずっと立ち話をしていたおばあさんの話し・・・
 いつも子ども達に注意をしている先生が、よそ見をして、園庭の階段でけつまづいた話し・・・
 お母さんもよほど忙しい時間でなければ、ついつい嬉しそうに話すわが子の様子が微笑ましく、うん、うん・・・と笑顔で聞いてあげた・・・時には、まるで自分がアリの行列を見た気分になり、次にアリを見つけた時には、思わず「あっ!」と心の中で小さく叫んでしまったり・・・
 ところが、少し子どもが大きくなってくると、黙っているか、それともテレビやアイドルやゲームやコミックの話・・・話す内容が違ってきます。
 いずれの話題も、たいてい、あまり母親達には興味が持てない、時にはチンプンカンプンの話です。だから、子どもが一生懸命に話したとしても、どこか上の空・・・
 子供が話している途中、「ちょっとゴメンネ、炊飯器のスイッチを入れなきゃ・・・」とか「あっ、雨が降り出しそう、洗濯物を取りこまないと・・その話し、また後でね・・・」などと平気で話しを中断させてしまう・・・こんな経験はありませんか?
 もう10年以上も昔の話ですが、ある母親が幼稚園児である「わが子のお友達」を殺害した事件がありました。その事件の後、裁判の中で証人に立った加害者の夫(職業は僧侶です)が言った言葉で、こういう内容の言葉がありました。
 「私は長年、妻が私に何かを話していても、その「言葉」だけを聞いていたのだと思います。妻が語るその言葉の奥、その向こう側にある妻の悩みや、苦しみ、悲しみなど、知ろうともしていませんでした。私は言葉という音を聞いていただけでした。もし、私が妻が話す言葉を真剣に聞いていたら・・・言葉の奥、言葉の向こうにある妻の「心」を聞こうとしてやっていたら・・・こんなことは起こらなかったかもしれません。」
 私はこの言葉が、非常に印象に残りました。

 そうです、母親も、アリの話しを聞いていた時には、一生懸命にアリの話しをしている子供達の「心」を聞き、「心」に触れていたのです。
 だからこそ、子どもは次の日も、その次の日も、「帰ったらママにこの話しをしよーっと!きっとママは笑うだろうなあ・・・」と、発見した喜びでいっぱいになり、いそいそと帰りの道を急いでいたのでしょう。
 そう、あの頃、お母さん達は、わが子が愛しくて、愛しくて・・・その子が語る言葉を、いつも耳ではなく、「心」で聞いてあげていたのです。そして、子どもとともに、喜怒哀楽を共有していたのでした。
 大きくなった子ども達は、もうアリの話しはしないでしょう。親に向かって、嬉々として話すことは、もうないかもしれません。
 でも、子どもが口を開き、話を始めた時には、子どもの話を聞く時には、昔、アリやクレーンの話しを聞いた時の感覚を思い出してみましょう。
 あの頃と同じ「心」で子ども達の話しを聞いてやれば、日頃は縁のないゲームやアイドルの話も、真面目に「聞いてやろう!」という気持ちで聞けば、子どもには必ず、そういう親の「変化」は伝わるはず、です。子どもだって、ママが自分と同じ感覚で、ゲームやアイドル、コミックが好きだ、なんて思ってはいないのですもの。にも関わらず、上の空ではなく、自分の話に耳を傾けてくれていることを感じれば、きっと昔のように、またママに話そう!パパにも聞いてもらいたい!という思いが湧いてくることでしょう。

 親が日頃から「心」をわが子のほうに向けて、「心」でわが子に接しようとしていれば、子どもはきっと大きくなっても、その親の「心」は忘れないものです。そして、複雑な多感な時期を乗り越えると、子ども達はまた、心をオープンにして、親達のほうを向いてくるでしょう。
 すっかり日が暮れているのに、うちの子は帰って来ない・・・クラブで遅くなる、とは言っていたけれど、いくら何でも遅すぎる・・・
 だんだんとお母さんは心配になってきます。心配を通り越してしまうと、悲しみは腹立ちに変わっていってしまう・・・そんな状態の時に子どもは帰ってきます。
 ピンポーンっと鳴った時のママの感激!ああ、帰ってきた!!
でも、ママはドアを開けたとたん、言ってしまうのです。
「遅いじゃないの!何してたの?もー、あんまり遅いから、心配したじゃないの!!もー何時だと思ってんの?」
 すると、きっと子どもは、ムッとして、お母さんを睨みつけて言うでしょうね。
「クラブがあるって、言ったでしょう!言った!朝に言って出かけた!」

 さあ、どうですか?ここにお互いの心はあるでしょうか?

   帰り道、きっとその子は駆け足をする思いだったのではないでしょうか。大変だ、思ってたよりずっと遅くなっちゃった・・・早く帰らないと・・・、いくらなんでも遅いから、きっとお母さんは心配してるよな・・・
 実際に、家の近くまで来ると走り始めたかもしれません・・・そして、ドアを開けたら、「ごめんね!遅くなっちゃった!」と、自分の心を素直に表現できないまでも、少なくとも笑顔で「ただいま!」と言おうと思っていた・・・
 それなのに、ドアを開けたとたん、鬼のような顔をしたお母さんが「遅いじゃない!・・・・」
 その子は、悲しいほど、腹が立つでしょうね、悪いのは自分。心配をかけてしまったのは自分。お母さんは、とても心配してたんだ、ということは十分にわかっています。ママの言葉も理解できなくはない。だから、自分が腹を立てる事が、十分に理不尽であることはわかっているのです。でも、そんなふうに鬼の形相で言われてしまったら、やっぱりムカッときてしまう・・・
 もし、その子がドアを開けたとたん・・・
「あー○○ちゃん!お母さん、心配したのよ。でも良かった良かった、何もなくて・・・クラブがあることは聞いてたけれど、あんまり遅いから心配しちゃった・・・ハイ、おかえり!お疲れ様!」 と迎えてあげたとしたら?きっとその子も笑顔で素直に「ただいま!」が言えたでしょう。まあ、ここで「ごめんね。思ったよりクラブが長引いちゃったんだ。あー、疲れた!ごはん、ごはん・・・ママ、ご飯は何?」などと続けば、それは現実ではありえないドラマの1シーンになってしまいますね。

 本当は、お母さんは心配をしていたのです。何かあったんじゃないかって。心配が心配を呼んで、胸が痛くなって・・・いつのまにか泣きたい気持ちになって、自分でその思いがコントロールできないから、腹を立ててしまった・・・
 是非、そのままの気持ちを言葉で伝えてあげましょうよ。
本来、言葉というものは「心」から出ていくものです。「心」で語る言葉だから、そこに「魂」が宿るのです。

 ところが、子どもの成長とともに、学校の勉強、受験などが絡み、親の期待や親の理想が加わって、「アリさん」や「クレーン」の頃とは違う感情が生まれていきます。それも愛情の一部には違いないのですが、時にはそこに親の見栄や傲慢な自尊心などもくっつき、わが子の心を感じようとする以前に、パッと言葉をぶつけてしまう・・・
 子どもの思いや、心を考えることなく、子どもの話す内容によって「真剣に聞くか、聞かないか」を取捨選択し、真剣に子どもの言葉に耳を傾けない・・・
 こんな生活、こんな親子関係からは、きっと「反発」以外、何も生まれはしないでしょう。なぜなら・・・そこには「心」がないからです。 
 どうぞ心で語り、心で話を聞いてあげませんか?それは、子どものためだけではなく、親の平安のため、でもあるのです。

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