子どもを受けとめていますか?
小学校に入り、自分の世界で経験を積んでいくと、子ども達はだんだんと口が達者になっていきます。それは、一つの確実な成長のかたち、でもあります。
しかし、そうは言っても、親の言うことをすんなりと聞くことはまずありません。何が言えば、「なんで?」という言葉が返ってきたり、気に入らないと返事をしないことも出てくるでしょう。そう、大きくなるにつれて、理屈っぽくもなる・・・
そう言えば、ウソつきにもなっていきます。たとえば、何か自分に不都合なことが生じると、自分の行為や言動を正当化するために、あの手この手で親を騙そうともしますし、自分の論理を通すために、うまく話しを組立て、理路整然と話す・・・なんてこともあるでしょうね。きっと、思い当たることがあるのではありませんか?
しかし、大人である親は、直感で(むー、確かに理路整然とはしているけれど、どこかが違う・・・)と気づきます。そんな時、父親も母親も、子どもが自分を騙そうとしたこと自体に腹を立て、「いったい何だ!」「なんなのよ!」ということになってしまうのです。
そうかと思えば、身体も大きくなって弁がたつようになったわが子にいつも振り回され、親としての権威も何もかもなくなり、なめられ、すっかり何でもかんでも子どもの言いなりになってしまう情けない母親もいる・・・
いずれにせよ、子どもが成長してくると、親も真剣に関わっていかなければ、幼い頃のように適当な返事とご褒美のような小手先だけでは、到底、相手が出来なくなっていくものですね。
しかし、ご存知でしょうか?
今までに起こった無差別殺人や、多くの殺人事件の加害者達の多くが、「愛された経験がない」ということを切実な胸の内として語っていることを・・・
犯罪を侵した加害者に対して、同情的に事件を捉えることは問題であり、大いに顰蹙をかってしまうことも覚悟の上で・・・それでも私は、罪を犯した加害者達が、そういうとんでもない許されない行為に至るまでに、親やまわりの大人から大事にされ、愛されて育っていたとするならば?きっと、違った人生を送っていただろう・・・そう思えてなりません。
親は、たいてい、正論、正論で話しを押し進めていきます。正しいことを教え、物事の真理を説いている親は、常に「正」で「強」です。子どもは、その前では黙るしかありません。この状況の中では、子どもは話す機会は与えられないものでしょう。
でもね、きっと、子どもも「聞いて欲しい」「話したい」と思っていることはあるはず、です。もちろん、中には「いいよ、話してご覧!」と、話すチャンスを与えてくれる奇特な親もいるでしょうね。でもね、そんな親でさえ、「子どもに話すチャンスを与えている、理解ある親である自分」に満足しても、心底、子どもの話に耳を傾けてくれる親は?ほとんどいないものですよ・・・なぜなら、大抵の親は、子どもが何か口を挟んだとたん、鼻で笑ったあと、「な、なにを言ってるの。それは違うだろう!」とか「はー・・・あなたは子どもだから、そんなことを言うけどね・・・」などと、せっかく開いた子どもの話を一蹴してしまうのです。
こんなことを繰り返しているうちに、子どもはもう、何も言わなくなっていきます。そりゃあそうですよね。誰も聞いてもくれないのだから、話しても仕方がない・・・そう思うのは当然でしょうね。
すると、今度は、何も言わない子どもに腹を立て「どうしてお前は何も言わないんだ!」とか、「ママはこんなに一生懸命に話しているのに、あなたは何を思ってるのか、さっぱりわかんない!」と言って怒鳴りはじめるのです。
こんな悪循環を作ったのは「親のほう」ですよ。もし、たとえ稚拙ではあったとしても、わが子の言葉に耳を傾けてあげたとしたら?
とりあえずは、真剣に聞いてやろう!と、心で子どもの話を聞いてやったとしたら?
そんな親の愛情深い思いは必ず子どもの「心」に伝わり、決して激したり、適当にすることなく、子どもは親に話すものです。
以前、ある中高一貫校からの要請で、中高生の相談に乗った時期がありました。その時、一番驚いたことは、ほとんどの生徒が開口一番に言った言葉、それは「どうせ、ママは聞いてくれないから・・・」でした。
この言葉は、「本当は聞いてもらいたかった」という思いの裏返しであること・・・わかりますか?こういう思いは、小学生でも、中学生でも、同じです!
どんな子どもも、「親に愛してもらいたい!」と思っているのを知っていますか?
子どもが幼い頃には「お父さんに誉めてもらいたい!」「お母さんに、スゴイわねって言ってもらいたい!」と素直にそういう気持ちを表に見せていましたね。
幼児期には、「えねママ、ぼく、すごいでしょう!」とか「ねえ、私、えらい?」などと、満面の笑顔で言っていたはず。そしてあなたも、きっと「わあ、すごいねえ!」「えらい、えらい、本当にびっくりよ!」などと、わが子を抱きしめ、ほめていたのではありませんか?
子どもは大きくなっていくと、素直に自分の思いを身近な親には話さなくなります。それは、照れであったり、恥じらいであったり・・・
もう一つの理由は、どんなに正直に思いを伝えても、もう親は決してほめない・・・という理由もあります。この頃になると、親の欲望には限りがなくなっているのですね・・・がんばって、良い点数を取ったり、ほめてもらう行為をしたら、「次は〇〇ね!」とか「今度もね!」ということしか言わなくなり、昔のように「すごい!」「えらい!」とは言わなくなる・・・これでは、やる気も失せるんです・・・
変わってしまったのは、子どもではなく、本当は「親のほう」である場合が多いのです。
確かに、子どもの背は伸び、すでに昔の「かわいい〇〇ちゃん」ではないかもしれません。でもね、それでも子ども達は、あの頃とまったく変わることなく、「すごいねえ!」「えらい!」と言ってもらいたいのですよ。そして、時には「おまえのことが好きだよ!!」「あなたはお母さんの宝物なのよ!!」と口に出して言ってもらいたいものなのですよ。「ママ、何言ってんの、気持ちわりー!」なんて悪態をついたとしても、実際には、心の中では嫌な気をするはずがありません。
変わってしまったのは、親のほうではないですか?「立派なわが子」「優秀なわが子」を思い描き、その理想から遠いと叱り、失望し、笑顔を忘れてしまう・・・理想の息子、理想の娘にするために、常に指導的な言葉しか発さず、愛情を忘れてしまっていませんか?
「親として、わが子を愛しいと思う気持ち」忘れてしまい、それを表現できなくなってしまったのではありませんか?
子どもが親に反発する時の言葉。
子どもが泣きながら必死に親に抗議する言葉。
もうそこには出てくる言葉はなくて、ただただ無言で親をにらんでいる目。
哀れではありませんか!
独り立ちするまでは、やっぱり親は強者、子どもは弱者、なんです。
わが子に迎合するのではありません。わが子の言い分を認めてしまうのでもありません。わが子の言葉を受け入れてしまうのではありません。
子どもの言葉を、子どもの心を、受け止めてあげましょう。
初めて子どもが「まーま」「おかあしゃん」って言った日のこと。入園式の日、緊張しながらも、振り返って、顔を歪めてにっと笑った時のこと・・・
あの日から、何日も・・・何日も・・・何日も時が流れましたが、今のわが子は、あの日の延長線上にいるのですよ。あの日のあの子と、今のこの子・・・中身はおんなじ子です。