「熱い時代から、さめた時代」へ
時代は21世紀。終戦からすでに70年近い時が流れました。インターネットの時代に入り、ここ10年だけを見ても、その変化には凄まじいものがあります。
昭和33年生まれの私などは、縦横無尽に走る高速道路は、「鉄腕アトム」の中のことだと思っていましたし、小さな機械に向かって話したり聞いたりすることなどは、「ウルトラマン」の宇宙防衛隊だけができること・・・そう思って育ちました。
しかし、今はどうでしょうか?
本屋に行かず、膨大な棚の中の本を見つめなくても、パソコンの前に座って手を動かすだけで本は見つかり、たいてい2,3日で自宅に届きます。
「Air Mail」などを頼りにしなくても、パソコンの操作だけで、いつでも24時間、世界中に手紙を送信することができます。ここには、5日や1週間のタイムラグはありません。
時間を気にして、主語抜きで必死にしゃべらなくても、地球の反対側にいる人とスカイプを使って、顔をみながら話すこともできます。それに、お金もかからない・・・
家族旅行でいく温泉地のホテルや旅館の「娯楽室」を楽しみにしなくても、町のゲームセンターに行かなくても、自宅でいろいろなゲームが楽しめ、居ながらにしてどこの誰ともわからない人と対戦することさえできるのです。
そうです。私が「遠い未来のこと」として思い描いた事、30代、40代のお父様やお母様が「近未来のこと」として想像していたことのほとんどが、現在、現実のこととして、子ども達のまわりにあります。
そして、そういう数々のものにちょっと戸惑い、躊躇している親達を横目に見ながら、今の子ども達は、そういう「便利なツール、重宝するグッズ」を当たり前に使いこなしていませんか?
新しいものがすべてすばらしく、古いものは時代遅れでつまらない・・・決してそうではありませんし、またその反対も然りで、新しいものが悪しきもので、古い時代のものこそ善であった、わけでもありません。
しかし、さまざまな時代の変化を全く意識することな(もしかしたら、認識はしているけれど、敢えて、それを無きこととして)、「お父さん達の若い頃は・・・」とか「お母さんが中学生の頃には・・・」と、当たり前のようにし、子どもに自分の思いを強要しようとしていませんか?
時代が変われば、新しい環境の中での思想も変化します。親が育った時代と、全く様変わりした今に生きる子ども達の意識を、わが事のように理解するのは難しいかもしれませんが、それでも、自分達が青春時代を生きた「昔」を押し付けてはいないでしょうか?
「人としての道」「社会性」「人としての心」は、時代がどんなに変わっても、何よりも大切にすべきことです。そして、それを子ども達に伝え、そういう心を育てていくのは、重要な家庭教育の役割です。しかし、それを子ども達に教え、伝える時、時代の流れ、時代の変化を、十分に認識した上で子どもに向き合う必要があるでしょう。
驚くことに、今の子ども達は、自分の部屋から一歩も外に出なくても、さまざまの種類の遊びや行為を行うことができる時代に生きています。
さすがに、もうそういうお父さんやお母さんは減ってきているでしょうが、「お父さん達が子どもの頃は、真っ暗になるまで、友達と外で遊んだもんだ。それなのに何だ、オマエは!・・・」と、部屋に閉じこもって遊ぶわが子に呆れたり、毎日のようにお稽古事に通う子どもを異星人のように見たり・・・
メディアの発達で、今では都市部と地方の格差は小さくなってきました。とは言え、やはり大都市と山間部や離島の子供達との生活は、今でも大きな違いがあるでしょうね。幸運にも、今でも遅くまで遊べる野山や野原、海、川・・・のある子ども達は幸せですが、首都圏や都市部の子ども達には、決して「お父さんが子供の頃の生活環境(遊び環境)」は与えられていません。
要は、親は認識していなければなりません。「時代」は大きく変わったという事。そして、今も猛スピードで様々な分野での研究が日夜続けられ、新しいものがどんどんと生まれ、子どもを取り巻く環境が変化していっているということを。
ちなみに・・・
我が家では、こんなことがありました。
私の夫は昭和の40年代の半ばにティーンエイジャーとしての多感な時期を過ごし、その中で教育を受けました。当時は、政治への反発、学生運動、デモ、集会・・・そんなものが毎日のようにテレビで流れました。30年間も続いたベトナム戦争がそろそろ終わりに近づこうとしていたのもこの時期です。
とにかく、昭和の時代は「熱い時代」でした。経済発展が右肩上がりで続き、その中で多感な時期を過ごす若者達は、心身にみなぎる熱気を、そのまま、自分達の生活の中で爆発させた・・・そんな時代だったのでしょう。
そんな時代の中にあって、教育的レベルが高い(と自分で思っている)若者達は、自ら「熱い中」に飛び込み、批判や反発、抵抗、という「動の動き」で自分を表現していました。「肩を組んで歌う」とか「手をとりあって叫ぶ」とか、とにかく人も熱かったですねえ。
しかし、今日、子ども達を取り巻く社会は、当時のように「集団で熱くなること」に対して、非常に冷めた社会です。
たとえば、ほとんどの子ども達は、学校生活の中で「仲良しのグループ」のようなものを静かに形成し、そこに集って学校生活を送り、その中で時には小競り合いを起こし、悩んだりもしていますが、彼らの「グループの意味」は、みんなで熱くなり、目的意識を持ってひたむきに行動するためのものではなく、一人でいるのが寂しいから・・・一人でいるのは不安だから・・・であり、一人よりもみんなでいるほうが楽だから、楽しいから・・・というものでしょう。
中学3年、高校1年・・・というような多感な時期真っ只中の息子に、夫はよく「パパが高校生の頃はね・・・」と、熱く語っていましたが・・・それを聞く息子は、冷めていましたねえ・・・さすがに、言葉に出して父親にケンカを売るようなことはしませんでしたが、「ねえパパ・・・ちょっと待ってよー、勘弁してよー。どうして、そんなにみな、熱かったの?」と、ありありと目が語っていましたねえ。
今は、冷めた時代・・・です。いまどきの言葉で言えば「だるい時代」かもしれません。それが良いとか悪いとか論じる必要はありません。それを始めてしまうと、横道にどんどんと逸れていってしまいますからね。
とにかく、今は「冷めた時代」であり、その中で子ども達は生きている、ということをより知り、認めなければなりません。そこが子どもとの接点の出発点であることを忘れてはいけません。
もし、父親や母親が、そういう今の時代を批判的に眺め、挑発的、挑戦的に子ども達に向かっていけば、きっと「何熱くなってんの?」と、冷ややかにかわされてしまうでしょう。
親子の間のそういう空気は、何より悲しくありませんか?
親には、「やがては成長し、一人の社会人になる子どもを育てる」責任があります。教えてあげるべきこと、伝えるべきことは山のようにあるでしょう。だからこそ、そういう親として必要不可欠なことを効率よく、効果的に子ども達に伝えるためにも、子ども達が生きている「今」を十分に知り、理解はできないまでも、認識する必要があるのです。
いずれは社会人になるわが子を育てる責任、義務があるからこそ、親は「何なんだ、おまえは!」とキレることなく、冷静に今の時代を見つめて、効果のある家庭教育を考えましょう!